2013年7月27日土曜日

危機管理(安全確保)

 危機管理(安全確保)の責任は、まず個人(自己防衛)にあり、政府はそれを支援する立場にある。しかるに日本では全てが政府に責任があるように云う(特にマスゴミ)のは間違っている。
 地震について考えれば、政府には何も出来ないことは簡単に分かる。地震予知は出来ないし、強制転居も強制建替えも出来ない。台風被害や津波に対しても同様である。要は住民の自己防衛しかなく、つまりは危険な場所から転居するのがベストである。政府の役割は、転居や建替えの住民要求に対し、適切な支援をすることである。
 現在政府のやっていることは、前記の逆が多い。例えば山崩れや水害の被害予想地に住居があれば、周囲の山や川を改造することを対策の中心にしているが、住民要求に基き、転居の支援をすれば良い。自己防衛の発想を優先しない限り、政府の措置は殆ど効果が無いことは、毎年災害が発生することより明らかである。原発に関しても同様で、その近くに住み補助金で優雅に暮らすのも良いし、嫌なら転居の支援をすれば良い。
 政府に出来て住民に出来ないものは、外国からの攻撃対応(戦争準備)だけである。すなわち住民がタケヤリでは防衛出来ない。戦後憲法の悪影響により日本人は自己防衛すべきものと国家として政府がすべきものの区別が付かないようだ。

2013年7月25日木曜日

再々しつこく原発

 福島原発事故の原因が明確になっていないので再開に反対すると云う意見が強調されているが、何度も言うように、原因は明らかである。すなわち東電福島にまともな技術者が一人も居なかったからである。一人でも居れば福島事故は起こらなかった。
 チェリノブイリ事故は技術者のレベルが低いことが原因で、東電の事故は体制の不備が原因であるという人(テレビコメンテータ)がいるが、事実は逆である。チェルノブイリでは多数の技術者が、「千回緊急停止操作をすれば、何十回か出力増大(暴走)する」と前から告発していたが、体制(ソビエト政府)がそれをもみ消していたのである。それに対し福島では、技術的に出鱈目なことや出鱈目な設備が多いのに、東電の技術者は誰も事前にそれを告発していないのである。つまり、まともな技術者が一人も居なかったのである。
 福島吉田所長はりっぱな人間であることは、万人の認めるところであるが、りっぱな技術者であったかどうかの議論は聞こえてこない。設備設計時、科学者が数メータの津波を設定、指示して(事故前には10メーター以上に変更)、言われるまま数メーター津波対応の設備を作るなんて、普通の技術者の常識にはない。技術者とは、誰にも分からないように安全を診るものだ。

携帯電話からインターネットへ

 広島での16歳の少年少女による事件を聞いて、日本の若者(低能者)の育成に関して、問題を提起したい。かって人間に携帯電話を与えると精神的に衰弱死すると云うパロディがあったが、現実には携帯を持った猿が沢山生まれ、衰弱死しないで殺人事件を起こす様になった。これは携帯電話の規制(使用法の教育等)をしないで、野放し状態にした結果である。
 携帯電話は全員が保有するようになったので、今さら規制しても最早間に合わないが、インターネットは未だ規制が間に合うかもしれない。若者特に小学生(低能者)が全員インターネットを使うようになれば、携帯以上に酷い結果(日本国民の劣化)が予想される。
 中国の様に殆どのインターネット情報を隠蔽するのは遣り過ぎとは考えるが、政府がある程度の内容を規制することが必要である。現在政府がどの程度の規制をしているか公表はないが、規制を民間だけに任せずに、政府がどの程度の規制をするか大々的に国民議論すべきである。例えば、「殺す」「ポルノ」「いじめ」「放火」等の言葉が有れば、情報を即削除し、発信者を補導するなどの措置が必要ではないか。

2013年7月19日金曜日

道州制

  1.  専門家と言われる方が道州制の討論をされていたが、要点を隠している。彼等は言う、目的は、①国の役割を安全保障、経済のマクロ政策等に絞り、国家の効率化を図る。②社会保障や教育等の運営を地方自治体に任せ地方の事情に合わせた自由な制度を可能にする。③県と云う中間層を廃止し効率化(公務員削減)を図る。である。真の目的は地方の自立、つまりは地方公務員を経営者とすることであるが、このことについては遂に誰も言わなかった。江戸時代の日本が豊(その時代の他国と比べ)だったのは、武士(地方公務員)が内職技術者として特産品の製造を担っていたからである。地方公務員に、その役割を果たす能力が無い限り、道州制の意味は薄い。

2013年7月15日月曜日

原理主義

 原理主義は諸悪の根源のように考えられるが、理解するのは難しい。有名なのはイスラム原理主義であり、千数百年前のイスラムルールが、現代に合致しないのは当然理解出来る。しかし現実にはそれが跋扈し、米国やイスラエル等に頻繁にテロを仕掛ける。しかし彼らが本来攻撃すべきサウジやクエートの富豪を殆ど攻撃しない。つまりそこからの資金で操つられ、真の目標を眼暗ましされている可能性が強い。つまりは貧困原理主義である。
 中国の原理主義つまり共産主義と中華思想の合体したものも酷い。平等と繁栄を謳いながら 、実際には貧富の格差は極大に達している。  更には、チベット、ウイグル、南満州(満州族)、北満州(朝鮮族)等で民族浄化を進めている。つまり実態は共産党員の保身(富の集中)に向けた原理主義に過ぎない。共産党員と云う立場(特権)を利用して、一介の旅行ガイドに過ぎないが、マンションを3か所も購入して蓄財している者を知っている(本人が自慢していた)。
 あまり言われたことは少ないが、米国の原理主義も同様に酷い。新教から来る勤勉と博愛主義を基本に、自由・平等・民主主義を謳い世界に影響を及しているが、実際に米国内でやっていることは出鱈目である。つまり人種差別や暴力の実態は日本人には理解できない酷いレベルである。多分金融業者や軍需産業等の一部のエリートのための口実原理主義であろう。
 原理主義の反対は、融合主義、習合主義と考えれば、日本には西洋文化、東洋文化(インド、中国、日本)融合の歴史があり、神仏習合の歴史がある。イスラム世界では経済的な繁栄が必要条件であろうが、中国や米国はそろそろ原理主義から脱却し、融合主義や習合主義を検討する段階に入っても良い頃ではないか(1000年無理でしょう)。

2013年7月8日月曜日

再々 原発

 原発は危険だから反対、安全だから再稼動、と、政治家もマスゴミも主張を2分して叫ぶだけで、解決策については双方から全く説明が無い。技術的には、自動車など他の文明機器と比較して、原発がより安全であることは明確であり、メリットの大きいことも明らかである。
 例えば自動車事故で死亡する人は多大であるが、歴史的に見て、原発で直接死亡した人は微少である。原発で精神的に被害を受けた人や避難中に死亡した人が多い、と主張するが、自動車事故で人生を棒に振った関連の家族数は莫大で、原発の比では無い。自動車も原発も人間活動の基盤(経済活動)を構築する意味で、どちらの方が利用価値が高いとか低いとか比較できるものでも無い。
 原発と自動車の違いは何かといえば、被害が予測出来るか出来ないかと云うこと、及び、被害者が特定出来るか出来ないか、と云うことである。日本で言えば毎年数千人の人が自動車事故で死亡するが、その数字は予測の範囲であるから許されるのであり、自動車事故の被害者も特定されない(機会均等)であるから許されるのである。
 原発問題の解決策はこの点にある。原発立地の住民に満足の行くお金を渡すか、そこが嫌なら他へ移住するに十分な措置をすることである。原発の被害を受ける可能性の無い非立地住民が原発反対を主張するのは、他に意図があると考えるのが当然だろう。
 某知事などが福島原発事故の原因が不明だから、原発反対と主張しているが、事故原因は明確である。たまたま福島原発にマトモナ技術者が不在していたに過ぎない。従って今後原発は益々安全になって行くことは確実である。技術とはそんなもの(進歩する)である。

2013年7月3日水曜日

アベノミクス

 大前さんがアベノミクスのことを、マスゴミ批判を装って、ぼろくそに書いている。すなわち、3本の矢は既知のことで、経済政策ではそれ以外の政策は無い、と。
 そもそも政策や社会科学においては、大部分が既知のものや、当然のものである。要はそれをどのように実行するか、悪く言えば如何に国民を誘導するか、と云うことに過ぎない。
 大前さんの書物も物言いも、新規なものは殆ど無いが、少々極端に表現しているだけで、注目を引いているに過ぎない。彼は評論家、もしくはコンサルでは優秀かもしれないが、自らそれを実行できるかどうかは疑わしい(選挙では落選したし、孫正義のようにも成れない)。
 アベノミクスを、ぼろくそに言うことで、彼は何を期待しているのであろうか。彼は段々評価を落としてきたので、やけくそになって、ますます人望の無さを証明している様に見える。

2013年7月2日火曜日

テクニカル

 テクニカルと云う言葉は、技術者とエコノミストでは逆の意味を示す。技術者では、原理原則、理屈を意味するが、エコノミストは非理屈(将来は過去の繰り返しである)を意味する。例えば、今日の株価はテクニカルな動きである、と云う意味はファンダメンタルズでは説明が出来ないという意味である。しかし最近の為替や株価の動き(一日毎に大幅に上下する)を見て、テクニカル評価が市場を支配していることが分かった。
 テクニカルな評価に従って売り買いする信者が増えれば、結果として市場はテクニカルな評価に従った動きをする。特にコンピュータ売買のソフトにテクニカルな評価が組み込まれば、益々その傾向が強くなる。
 中央銀行などが少量の資金では為替や株価の操作は出来ないと(理論的には)云われているが、テクニカル信者が増えれば、少々の気配で市場が同様な動きをするようになるので、操作が可能になることも考えられる。
 結局、経済は宗教と同じで、ある信者(あるテクニカル評価手法)が増えればその信者が有利になるという、極めて人間的(多数決的)なものである。宗教が違えば、予測も違うわけで、エコノミストの予測は各人各様(逆予測)になるのは、当然の結果である。つまり、経済は(我々技術者とは違う人種の住む)宗教界であり、我々が近寄って得することはないだろう。